「大都市政策の系譜」第1回「オスマンのパリ大改造」

第1回「オスマンのパリ大改造」

一般社団法人大都市政策研究機構
大都市政策研究班

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 現在のパリの骨格を造り上げたのは、第二帝政期のナポレオン3世(在位1852-1870)統治下にセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによって実施されたパリ大改造事業と言われる。

 それ以前にも、ルイ14世のシャンゼリゼ通りやチュイルリー庭園、ルイ15世のコンコルド広場、ナポレオン1世のリヴォリ通りやウルク運河など、さまざまな都市改造が行われてきたが、このパリ大改造は、パリ全域を対象とした規模の面でも、街路や公園、上下水道、都市美観といった都市インフラ全体にわたる事業の面でも次元が異なり、パリの都市景観を抜本的に変えるものであった。ヴィクトル・ユーゴーやオノレ・ド・バルザックが小説に描いた古めかしいパリの風景はほぼ姿を消し、近代的都市としての首都パリに生まれ変わったのである。

パリ大改造の時代背景

 フランスの産業革命は、イギリスから数十年ほど遅れて1830年代の七月王政期(1830-1848)に始まった。パリの人口は、旧市街で1800年代初頭に約55万人だったが、1840年代半ばには100万人を超えた。パリ中心部の人口密度は1ヘクタール当たり800~1000人あるいはそれを超える人口高密エリアが拡大していたという。

 このような人口集中と過密に対し、中世以来の城塞都市としてのパリの街は、狭く曲がりくねった道路と、その両側に密集する高いアパートによって、日も当たらず風通しの悪い非衛生な状況にあった。道路の中央に穿たれた細い溝には雨水だけでなく、動物の糞・廃棄物・汚物などが滞留し、下水道の不備はセーヌ河をも汚染した。

 一方、馬車の大衆化や乗合馬車の登場により、パリの道は人や馬車がごった返し交通渋滞が絶えず発生した。1830年代頃からパリを中心とした鉄道網の整備が始められていたが、パリの旧態依然たる道路網は産業化と経済発展の妨げとなった。

 ところが七月王政政府は、財政緊縮・健全化を掲げ、公共事業投資には消極的で、建築線指定等を通じた自主的な道路やオープンスペースの整備に期待するレッセフェール(自由放任主義)政策をとり、抜本的な対策を怠った。大資本家やオールド・バンク(金融貴族)は、人口増加による収益拡大を目指し、パリ外周部の積極的な開発投資を行い、計画性がない無秩序な新市街地が形成される新たな問題も発生した。

写真上:1860年頃のパリ外周部の状況(オートュイユ地区)
写真下:パリ大改造時の建物取り壊し(バスティーユ方面への街路事業)
出所:Xavier Lefebvre et al., “Paris, la Ville à remonter Le Temps”, StudioCanal (DVD), 2012