「大都市政策の系譜」第1回「オスマンのパリ大改造」(2)

ナポレオン3世とオスマンの登場

写真:ナポレオン3世
図:「芸術家、破壊者」としてのオスマンの 風刺画(ドーミエの挿絵)

出所:レオナルド・ベネーヴォロ著 佐野敬彦・林寛治訳『図説 都市の世界史4』

 ルイ・ナポレオン(ナポレオン1世の甥、後のナポレオン3世)は、ナポレオン1世失脚(1815年)後の国外亡命生活の中で、ロンドンの計画的に整備された街並み、広大な公園、完備された上下水道に感銘を受けた。なかでも、ジョン・ナッシュによるリージェント・ストリートや公園に面した宮殿風の長い住宅壁面建築を高く評価したという。

 第二共和政(1848-1852)下で大統領に就任したルイ・ナポレオンは、1951年12月にクーデターを決行、翌1952年12月に帝政移行の是非を問う国民投票を実施し、圧倒的多数の賛成を得て、ナポレオン3世として第二帝政を開始した。

 パリ改造の取り組みは、大統領就任時から当時のセーヌ県知事ベルジュに計画実行を指示していたが、財政健全主義者のベルジュは市議会と組み、事業実施を遅らせようと画策した。そこで、第二帝政成立後の1853年6月にベルジュを解任し、ジロンド県知事であったオスマンを新たなセーヌ県知事に任命した。オスマンの「回想録」によると、知事叙任式の夜、ナポレオン3世に呼ばれた際の出来事は、以下の通りであった。

 「皇帝は、私に1枚のパリの地図を示した。そこには皇帝が実現するつもりである新しい道路が、緊急性の度合いに応じて、青、赤、黄、緑で塗分けられていた。そして、皇帝は直ちに着工するよう私に命令した。」

  一方、オスマンは、先の「回想録」で「私は生まれの面でも信念の面でも、帝政主義者である」と述べているように、ルイ・ナポレオンのクーデターの際には全面的な支援を行い、帝政移行にも大きな貢献を果たした。内務大臣ペルシニーの推薦によって知事の座を得たオスマンは、ナポレオン3世の意志をくみ取りながら、優秀な専門家を抜擢して計画を推進する優れた行政官(プロデューサー)として、この大事業の遂行に手腕を発揮したのである。