パリ大改造の概要
3-1 街路事業
オスマンは、街路整備に際し、①古い街路を拡幅し直線化を図る、②幹線道路は複線化によって交通循環の円滑化を図る、③重要な拠点は斜交路で接合する、という三原則を掲げた。
まず手掛けたのは、パリの中心部を東西及び南北方向に貫通させる「パリの大交差路」と称された事業である。リヴォリ通りを延長し、エトワール広場からバスティーユ広場まで東西に横切る軸を結ぶ。次に東駅からシテ島を通り、リュクサンブール庭園の端まで南北に結ぶ大通りを開通させた。さらに東西・南北に碁盤目状に整備される街路、広場等を中心に放射状に広がる街路とこれらを連絡する環状道路、主要拠点間をショートカットする斜交街路が調和的に組み合わされた。
街路整備に関連して実施された主な面的整備では、シテ島の改造とエトワール広場(現シャルル・ドゴール広場)があげられる。
細街路に民家が密集し、最も非衛生で治安が悪いエリアであったシテ島は、ノートルダム大聖堂やサント・シャペル等の一部の建造物を除いてすべての民家を除去し、広幅員の道路を整備して公共建築物(パリ警視庁、商業裁判所、中央病院等)を集中立地させた。
パリの西の外れにひっそりと建つに過ぎなかったエトワール凱旋門には、パリ市域の拡大による市街化の進行も念頭に置きつつ、直径240mの巨大な広場を設けて、放射状の12本の大通りとこれらを連結する同心円状の道路を新設し、広場を中心とする道路ネットワークを整備した。
なお、こうした街路整備の目的は、交通の円滑化や日照・通風の確保だけでなく、反政府組織の潜伏や暴動の抑止、有事の際に軍隊の円滑な移動をも目論んだものであった。
3-2 公園事業
ナポレオン3世は、パリの過密状態を改善するため、広幅員の街路や広場の整備に加え、新鮮な空気の補給源として公園の整備にも熱心に取り組んだ。その計画は、ブローニュの森を左肺、ヴァンセンスの森を右肺とみなす人体モデルを念頭に構想したものであった。
オスマンは、ジロンド県時代に知己を得ていた土木技師アドルフ・アルファンを公園局長に抜擢する。アンファンは、ブローニュの森、ヴァンセンヌの森、ビュット・ショーモン、モンスリー、モンソーの3つの都市公園、シャンゼリゼをはじめとする24の広場の設計を担当するとともに、オスマンによって引かれた街路の設計を担当した。
ブローニュの森は、森林公園として整備され、ロンシャン競馬場を建設し上流階級の社交の場を提供した。ヴァンセンヌの森は、旧ブルボン王家の狩猟場で、フランス革命後には軍の演習場となっていたが、市民の公園として整備し開放した。
3-3 上下水道事業
人口増加による水不足への対応、公衆衛生の向上の観点から見逃してはならないのが、上下水道の整備である。1932年のコレラ流行を機に上下水道の改善と汚水処理の整備が急務とされていた。
オスマンは、ヨンヌ県知事時代に知己を得ていた土木技師ウジェーヌ・ベルグランを上下水道局長に抜擢する。ベルグランは、将来の水需要にも対応できるように、約150㎞ほど離れたデュイス川、ヴァンヌ川を新たな飲用水の水源としてパリに至る導水路を敷設した。既存水源であるセーヌ川とウルク運河は非飲用水として使用し、飲用・非飲用を分離供給させた。
下水道は、末端小管渠から幹線管渠に至るネットワークを計画し、巨大な地下溝を整備した。市内全域からの汚水は北西方向に運ばれ、セーヌ川下流で放流された。
3-4 都市美観
大規模な都市改造を進める上で、オスマンは、土地収用法に「超過収用」(1852年デクレ(政令))という新たな近代的手法を導入した。
これは、新街路の用地だけでなく、両側の開発用地も強制的に収用するものである。収用(強制買収)した土地は、連続したファサードの統一性を保証するための規制(街路幅員に応じた高さ制限のほか、各階や屋根の高さ、天窓の張り出し方のルール化、一定のデザインのバルコニーや軒線、屋根をもたせる売買契約条件等)をかけたのち、開発業者に売却された。
新ルーブル宮、シャルル・ガルニエ設計による新オペラ座、市庁舎、鉄道駅などの主要な公共建築物も建設あるいは再建され、これらを街路の中心軸に据えることで記念碑のような視覚的効果を演出した。