「大都市政策の系譜」第7回「ジェイン・ジェイコブスの「アメリカ大都市の死と生」」(2)

都市の特有な性質

2-1 歩道の利用法――治安

 ジェイコブスは、都市の治安について次のように説く。「都市の街路が安全ならば、都市全体も必然的に粗暴と恐怖から守られる」、「歩道、それに隣接する用途、さらにはその利用者は、都市における「文明」対「粗暴」のドラマの積極的な参加者である。都市の安全を保つことは、都市の街路や歩道のもつ基本的な役割である」。

 大都市と町・郊外との根本的な違いは、互いに見知らぬ人々で溢れていることにあるが、これら多くの人々の中でも安心して暮らせることが、成功する都市の基本的な特性だと指摘する。

 犯罪の危険性は、都心のスラムよりも「閑静な住宅地域」でこそ深刻であり、都市の老朽地区でも再開発地区でも問題は変わらない。都市の街路や歩道の平穏は、警察によってでなく、「人々の中に共通する自発的な管理や道徳的規範による複雑で無意識なネットワークによって維持され、人々自身によって強化されている」。また、都市の危険性の問題は、人口密度を希薄化させて郊外住宅地のように造り替えることでは解決されない。

 ジェイコブスは、街路は頻繁に利用されてこそ安全になると結論づけ、街路の安全性を確保する3つの主要条件として、1)公共空間と私的空間との明確な区分、2)街路に面して暮らす人々の目の存在、3)歩道の継続的な利用者の必要性をあげる。

 そして、都市の再開発プロジェクトの荒廃ぶりと対比させつつ、彼女の暮らすニューヨーク市のハドソン通りにおける雑貨屋、仕立屋、レストラン、バーの店員、客、通行人らの活気ある活動が、無意識かつ秩序だった構成要素となって街路の治安を支えている情景を「都市の歩道のバレエ」になぞらえて描写する。

2-2 歩道の利用法――人々の交流

 ジェイコブスは、「都市の人々で行われるだろう興味深く有益で意義のある交流が、私生活に都合のいいような知人関係に限られるのであれば、都市は無意味なものになる。都市には(あなたや私、誰の立場からしても)ある程度の交流ならば有益で楽しい人々で溢れている」と述べる。そして、「都市街路の信頼は、街頭で交わす数多くのささやかな交流によって時間をかけて形づくられている」、「そうした地元レベルの何気ない公共の場での交流の総和が(ほとんどは偶発的で、用事のついでで、そのすべてが当人の勝手で誰からも押し付けられたものでないが)、人々の公共たる同一性への感覚であり、公共たる尊敬と信頼で張り巡らされた網であり、やがて個人あるいは近隣が必要とするときに頼みの綱となる」と説く。しかも、「それは、何よりも”個人的な献身“ではないことを意味するのだ」。

 よい都市での近隣関係は、基本的なプライバシーを守りつつも、周囲の人々からさまざまな交流や楽しみや助けを得たいという絶妙なバランスを実現している。歩道や歩道沿いの店舗などの日常的な人々の交流の下で、人間関係のもつれや言い訳、責任や献身などの義務がなくても、あらゆる人々と知り合いになることが可能になる。一方、郊外住宅地や都市の開発プロジェクト団地のように「一体感」(togetherness)を理想とする場所に住む人々は、少数の親密な隣人とプライベートな生活も含めて多くを共有するか、まったく交流しないかの選択を余儀なくされる。隣人との付き合いを慎重に選び、その地域の偏狭さと均一性ゆえに、収入や人種、教育的背景の異なる人々との交流を避けるようになり、社会構造が失われる結果となる。

 歩道の生活は、公的な性格をもつ人間(public characters)と自認する人々によって、その社会構造は支えられている。店の主人やバーの経営者のほか、セツルメント・ハウスのソーシャルワーカーや牧師など、公共性を持ってさまざまな人々と対話する人間の存在である。

 ジェイコブスは、歩道での社会的な交流と治安は、アメリカの最も深刻な社会問題――いわゆる「人種隔離と差別の問題」にも直接的に関係するとし、「歩道が安全ではなく、そこに住む人々が多くを共有するかゼロかで我慢するような大都市の建設や再開発は、どんなに努力してもアメリカの都市が差別を克服することを遥かに困難にしかねない」と主張する。そして、「歩道での人々の交流は、平凡で無目的で成り行きまかせに見えるかもしれないが、それを積み重ねることで都市の社会生活の富を成長させるためのコイン(small change)なのだ」と説く。

2-3 歩道の利用法――子どもたちの社会への融和

 都市の道ばたは、子どもの成長において道徳的に有害な環境で堕落の道を学ぶ「掃きだめ」であって、運動設備の整った遊技場や芝生のある公園で健全に遊ばせるべきとの主張は、都市計画や住宅計画におけるファンタジーと一蹴する。

 ジェイコブスは、開発プロジェクトで作られた公園や遊技場はストリートギャングの温床となっていて、むしろ大人たちの何気ない監視の下にある歩道は子どもたちが遊び、学ぶのに最適な場所だと説く。

 都市の子どもたちは、スポーツや運動をする機会とともに、遊び、ぶらぶらし、世間の考え方を学ぶのに役立つような、ある機能に特化されない屋外の拠点を必要とし、活気のある都市の歩道はこうした特化されない遊びの形態を見事に提供する。そして、現実社会において子どもたちが「都市生活をよりよく暮らすための第一原則」を学ぶのは、都市の歩道にいる通常の大人たちだけからである。その第一原則とは「人々はたとえお互いに何ら関係がなくても、多少なりとも公共的責任を負わなければならない」ことであり、それは「自分とは何の親族関係や友人関係、役職上の責任を持たない人が、自分のために多少なりとも公共的責任を負ってくれた」という経験から学ぶのである。職場と居住が切り離される田園都市や郊外住宅地とは異なり、男性と女性の両方で構成される日常生活から学ぶという機会は、活気ある多様な都市の歩道で遊ぶ子どもたちこそ可能となると主張する。

 歩道は多くの人々の多種多様な目的で使われる必要があるため、歩道の幅が十分に広ければこうした多様な利用と相まって、歩道の遊びも大いに創意工夫することができる。歩道幅が30~35フィートもあれば、いかなる子どもたちの遊びの需要――日陰を提供する街路樹や歩行者の行き来、大人たちの歩道生活のためのスペースも含めて――を満たすことができるが、こうした贅沢な幅の歩道はまれであり、20フィート幅の歩道も車道拡幅のために年々削られている。それは、「歩道が都市の治安や公共生活や子どもの育成のためのかけがいのない器官と認識されず、尊重もされていないからだ」と警告する。

2-4 近隣公園の利用法

 ジェイコブスは、これまで近隣公園やオープンスペースは「都市の恵まれない人々に与えられた恩恵」と考えられてきたが、都市公園こそ「恵まれない場所」であって「活力を与え、公園の良さを理解するという恩恵を必要とし、それらが与えられるべき場所」だと説く。

 公園は気まぐれな場所であり、都市に喜びを与え、周囲への経済的資産となりうる公園もあれば、腐敗に浸食され、無人で愛されていない都市の真空地帯ともいうべき多くの公園もある。正統派都市計画では、オープンスペースを無批判に崇拝し、数多く作ろうとするが、ただそこにあるだけで人々がオープンスペースを利用するわけではない。

 継続的な利用があって活気がある公園は、歩道に活気がある理由と同様に「隣接するそれぞれの用途に物理的な機能としての多様性があり、そのために利用者と利用時間帯に多様性があるため」と主張する。彼女は、公園が公共の中庭のごとく活発に利用される4つの設計要素として、リピートユースを促す「複雑性」(intricacy)、人々が集まれる「中心づくり」(centering)、「太陽による日照」(sun)、多様な建物と用途に「囲まれていること」(enclosure)を提示する。

 ジェイコブスは、「今日のアメリカの都市は、公開空地は必然的に優れたもので、量は質に等しいのだという幻想に囚われているため、あまりに過大で、過多で、おざなりで、立地が悪く、したがって利用するにもあまりに退屈で、不便な公園や遊技場やプロジェクト用地に金を浪費している」と批判し、「都市が、用途や利用者の日常的な多様性を、その日常の街路においてうまく融合すればするほど、人々は、よりうまく、さりげなく(しかも経済的に)立地のよい公園を活気づけ、支えるようになる。そしてこれらの公園は、近隣に対して空虚感でなく、恩恵と喜びを与えうるのだ」と述べる。

2-5 都市近隣の利用法

 ジェイコブスは、都市の「近隣」(neighborhood)を、町や郊外の暮らしの如くセンチメンタルな概念で捉えるのでなく、「うまくいっている都市の近隣とは、その地区の問題を十分に把握し、その問題によって破壊されない場所」と捉えなおすように促す。

 「都市の近隣を、自治(self-government)のためのありふれた器官と考えれば、うまく咀嚼することができる」、そして、「都市の近隣を、都市の自治あるいは都市の自主管理の器官として考えるならば、小規模な集落のコミュニティに適用されるような「近隣」に係る幾つかの正統的で、しかし無関係な概念を放棄する必要がある」、「まずは、自己完結型または内向的なユニットとしての「近隣」は捨て去らなければならない」と説く。

 彼女は、正統派都市計画理論でいう「近隣」の理想形――人口7千人の自己完結型のユニットを、都市の「近隣」に当てはめるのは有害である。大都市の特徴は、近隣の地元主義に縛られず、大きさや性質の異なる多様な地域にまたがる都市住民の利用や選択に関する流動性にこそあると主張し、都市の「近隣」を、(1)都市レベル、(2)街路レベル、(3)地区レベルの3つの補完関係で考えることを提案する。なかでも、政治的・財政的に力を持つ都市レベルの「近隣」(市役所等)と、街路レベルの自治機能を担う「近隣」との「仲介役」として、地区レベルの「近隣」の機能を強化すべきと説く。

 最後に、アメリカ諸都市で推進されているスクラップ・アンド・ビルド型再開発を批判し、「たしかに、優れた都市の近隣は、自らの選択で来た住民であれ、便宜的に住むことになった移民であれ、新規参入者を吸収することができ、かなりの量の一時的な人口を保護することもできうる。しかし、こうした人々の増加や入れ替わりは、段階的でなければならない。この場所における自治が機能するためには、いかなる人口の流動にあっても、その根底には近隣ネットワークを築いてきた人々の継続性がなければならない。こうしたネットワークは、都市にとってかけがえのない社会資本である。その資本が、何らかの原因にせよ失われれば、そこから得られるものは消え去り、新しい資本がゆっくりと、しかも運よく蓄積されるまでは決して戻ってこないのである」と述べる。