首都圏基本計画の成立
3-1 首都圏構想の素案
戦災復興事業が縮小される中、東京都は、首都建設を国家的事業として遂行すべきとの視点から首都建設法制定促進運動を展開し、国会審議並びに住民投票を経て1950年6月に首都建設法を成立させた。
総理府の外局として首都建設委員会が設置され、1951年から54年にかけて事業別の首都建設計画と首都建設緊急五か年計画を作成したが、委員会自体の権限が小さく、国の財政的援助も十分でないことなどから東京の諸施設の整備は遅々として進まなかった。一方、東京への人口・産業の集中は激しく、1945年に278万人にまで落ち込んでいた東京都区部の人口は、1950年に539万人へと急増、1955年には697万人と戦前のピーク人口を突破し、1960年には831万人に達することになる。
そこで、首都建設委員会は、1955年6月に「首都圏構想の素案」を提案する。この素案は、大ロンドン計画を範に取り、都心からおおむね半径50㎞の区域に内部市街地地帯、近郊地帯、周辺地帯の3地帯を同心円的に想定し、近郊地帯(グリーンベルト)と周辺地帯の30㎞程度に位置する工業的衛星都市群のネットワークの形成によって首都圏の過大化を防止することを基本的方針に掲げるなど、その後の首都圏整備につながる考え方がほぼ網羅されたものであった。
3-2 第1次首都圏基本計画
首都建設委員会の「首都圏構想の素案」が発表されると、その実現を期すべく新規立法の検討が開始され、1956年4月に「首都圏整備法」が成立する(首都建設法は廃止)。
首都建設委員会に代わり、総理府の外局として首都圏整備委員会が設置され、首都圏整備法の基本構想を具現化するものとして、1958年7月に第1次首都圏基本計画を発表した。
この計画は、東京駅から半径100㎞の広域を首都圏として、その区域を既成市街地、近郊地帯、周辺地域の3つに区分し、それぞれの整備方針を定めている(目標年次は1975年)。具体的な整備方針としては、①既成市街地の区域として、東京都区部、武蔵野、三鷹および横浜、川崎、川口の一部を指定し、既成市街地内の整備を図ることで合理的な土地利用を図るとともに、工場、大学等の新増設を制限する、②既成市街地の周辺には幅約10㎞の近郊地帯(グリーンベルト)を設定し、既成市街地の膨張を抑制する、③近郊地帯の外側に市街地開発区域を設け、多数の工業衛星都市を開発し、人口および産業の増大を吸収し定着を図ることが謳われた。この基本計画を踏まえ、計画期間5年の整備計画および毎年度の事業計画が策定されている。
整備計画のうち、1958年7月の「既成市街地における宅地整備計画」では、新宿、渋谷、池袋の3地区を副都心として再開発する方針が明示され、多心型都市構造の概念が初めて計画論として位置づけられた。また、衛星都市の開発・整備のために「首都圏市街地開発区域整備法」(1958年8月)が、人口増加の主要因であった工場と大学等の新設を制限するために「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」(1959年3月)が制定された。