「大都市政策の系譜」第6回「首都圏基本計画の成立」(2)

東京戦災復興都市計画

 終戦後の1945年11月、内閣総理大臣下に戦災復興院が設置され、翌12月に「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定される。この基本方針では、復興計画の目標として、過大都市の抑制並びに地方都市の振興を図るために都市の能率、保健、防災を主眼とし、国民生活の向上と地方的美観の発揚を企図することが掲げられた。

 東京では、東京都計画局都市計画課長・石川栄耀のもとで、同年12月に東京戦災復興都市計画の基本方針となる「帝都復興計画要綱案」が策定された。この要綱案は地方計画(首都圏の計画)と母都市の都市計画(区部の復興計画)の二段階で構成されている。

 地方計画では、東京の40~50㎞圏に人口10万人程度の衛星都市(横須賀、平塚、厚木、町田、八王子、立川、川越、大宮、春日部、千葉等)、さらに人口20万人程度の外郭都市(水戸、宇都宮、前橋、高崎、甲府、沼津、小田原等)を想定し、これらの都市に工業立地と分散居住を図ることで合計400万人の人口を収容し、東京都区部の計画人口を350万人に抑えることとしている。一方、区部の復興計画では、都心の幹線、都心・副都心のバイパスとして復員80-100mの広幅員街路(ブールヴァ―ル)を整備し、水辺や高台(高輪、小石川、駒込など)、鉄道沿線、100m道路沿いに幅員100-300mの帯状緑地帯をつくりあげ、この緑地帯(グリーンベルト)によって東京の市街地を人口15万人単位、面積1平方㎞のブロックに分割して隣保圏単位のコミュニティを形成させようとするものであった。

図:東京戦災復興計画の土地利用計画
出所:石田頼房『日本近現代の都市計画の展開 1868-2003』自治体研究社,2004年

 この要綱案に基づき、1946年から48年にかけて「東京戦災復興都市計画」(街路計画・区画整理、用途地域、緑地地域)が順次計画決定されるが、戦災復興に対するGHQの冷淡さ、インフレ収束のためのドッジラインの公表(1949年4月)、これに伴う「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」の閣議決定(同年6月)によって、東京戦災復興都市計画は、池袋、新宿、渋谷、錦糸町、五反田駅周辺などの一部の区画整理事業等が実現しただけで大幅に縮小されることになる。