「大都市政策の系譜」第5回「大ロンドン計画」(3)

バーロウ委員会報告と大ロンドン計画

4-1 バーロウ委員会報告

 1937年、首相となったチェンバレンは、地域政策、都市政策の総合的な再検討と今後の方針を明らかにするため、バーロウ(M. Barlow)を委員長とする「産業人口の配置に関する王立委員会(Royal Commission on the Distribution of the Industrial Population)」(バーロウ委員会)を設置した。2年にわたる調査の結果、1940年1月に報告書が提出された。報告では、大都市の過密と地方産業の衰退の問題は表裏一体の課題であり、「ロンドン及びその隣接地域への産業人口の絶え間ない流入は、社会的、経済的、戦略的に問題であり、緊急にその対策を必要とする」と指摘し、国の基本的な措置として、①人口の過剰な大都市地域においては、継続的かつ積極的な再開発を行う、②大都市地域から産業及び産業人口の分散を図り、とくにロンドンにおいてはこれ以上の産業開発を制限する、③各地域の均衡ある産業開発を促進し、国全体を通じて産業の適正化を図ることを勧告した。そしてこれらを達成するために、国家的な規模での対応が必要であり、田園都市、衛星都市、既存中小都市の拡大もしくは商工業団地建設の手法の導入を検討すべきとした。

 このバーロウ委員会報告で提示された基本的政策は、バーロウ・ドクトリン(Barlow Doctrine)と呼ばれ、続いて提出されたアスワット報告(「土地利用の規制に伴う補償と受益者負担に関する専門委員会報告(Report of the Expert Committee on Compensation and Betterment, 1942)」)、スコット報告(「農村地域の土地利用に関する委員会報告(Report of the Committee on Land Utilization in Rural Areas, 1942)」)とともに、開発計画の3部作として、戦後から1970年代半ばに至るまでイギリス地域開発の指針となる。

4-2 大ロンドン計画

 第二次世界大戦後のロンドンの復興と将来計画のため、都市・農村計画大臣の要請を受け、P. アーバークロンビー(Sir Leslie Patrick Abercrombie)は「大ロンドン計画(Greater London Plan)」を立案し1944年に公表した。前年、彼はフォーショウ(T.H. Forshaw)とともに、バーロウ委員会報告の方針に基づき作成した「ロンドン・カウンティ計画(County of London Plan)」をロンドン・カウンティ議会に提出していたが、同計画に盛り込まれた内部市街地の再開発と産業・人口の分散、住宅政策、広域パークシステム、放射環状道路網などの構想にさらに検討を加え、再提案したものである。

 この計画は、ロンドン中心部から半径30マイル(約48.3㎞)、総面積約2,600平方マイルを計画区域とし、①4つの環状帯の設定、②区域に対応する人口分散計画、③人口分散のためのニュータウン(New Town)の建設と拡張都市(Expanded Town)の設置、④これに対応した幹線道路計画、鉄道及び空港計画、空地計画などが示されている。

 最も特徴的なのは、4つの同心円状の環状帯(右図)、すなわちロンドン・カウンティの外側に、内部ロンドン地帯(Inner London Ring)、近郊地帯(Suburban Ring)、グリーンベルト地帯(Green Belt Ring)、外部農村地帯(Outer Country Ring)の区分を設け、それぞれ具体的な計画を与えたことである。

 なかでもグリーンベルト地帯は、ロンドン市街地の拡大を防ぎ、外周部の農村・田園地帯を守るため、グリーンベルト法により確保された緑地を包含する広範な農地、公園、森林等で構成する幅約10kmの環状帯として設定された。

図:アーバークロンビーの「大ロンドン計画」
出所:馬場健『戦後英国のニュータウン政策』敬文堂,2003年

 また、大ロンドン計画区域内は一部の特定地域を除いて新規の工場立地を禁止し、区域内の総人口を1938年の約1000万人以内に抑えつつ、ロンドン内部(内部ロンドン地帯、ロンドン・カウンティ、ロンドンシティ)から約120万人の過剰人口をグリーンベルト地帯とその外周の地域に移住させるとした(右表)。

 その人口の受け皿となるのは、住宅と工場・商業、公共施設が適切に配置された自己完結型の都市であるニュータウンと、既存村落を計画的に拡張する拡張都市であり、10か所のニュータウンを建設することを提案した。

 戦後、この計画は労働党アトリー政権のもとで、1946年のニュータウン法(New Towns Act, 1946)、1947年の都市及び農村計画法(Town and Country Planning Act, 1947)につながり、イギリス全土でニュータウン政策が進められる。そして、この計画で提案された工場立地抑制、グリーンベルト、ニュータウンなどのアイディアは、戦後の各国の大都市圏計画に広く影響を与えることになった。

表:大ロンドン計画の目標人口(当初計画)

出所:桜井昭平「第2次大戦後におけるロンドン計画行政の諸問題-ロンドン行政法成立の背景(2)-」, 1969年

(一般社団法人大都市政策研究機構 主任研究員 三宅 博史)


<注記>

 1)1909年住宅・都市計画法成立を記念してイギリス王立建築家協会が主催した国際都市計画会議。

 2)国際田園都市・都市計画連合(International Garden Cities & Town Planning Federation)は、1924年に国際都市・農村計画及び田園都市連合(International Federation for Town & Country Planning and Garden Cities)に名称変更している。現在、IFHP(International Federation for Housing and Planning)として活動を続けている。

 3)秋本によれば、決議前の議論では、アメリカやヨーロッパ大陸(ドイツ、オランダなど)の都市計画家らは衛星都市群の建設には消極的で、アダムスは、そもそも都市形態の一般形態を決めること自体に問題があると述べたが、これらの消極論、異論にも関わらず、冒頭3カ条にはイギリスの田園都市運動家の主張が掲げられ、「決議は妥協の産物であった」という(秋本(2006)、秋本(2020))。


<参考文献>

 近藤茂夫『イギリスのニュータウン開発』至誠堂,1971年

 石川幹子『都市と緑地-新しい都市環境の創造に向けて』岩波書店,2001年

 馬場健『戦後英国のニュータウン政策』敬文堂,2003年

 佐藤健正『近代ニュータウンの系譜-理想都市像の変遷』市浦ハウジング&プランニング叢書,2015年

 小杉毅「イギリスにおける地域計画(1)・(2)」関西大学経済論集,第17巻第2号・第3号,1967年6月・9月

 桜井昭平「第2次大戦後におけるロンドン計画行政の諸問題-ロンドン行政法成立の背景(2)-」流通経済論集,第3巻第4号,1969年9月

 秋本福雄「イギリス及びアメリカにおける地域計画の誕生:都市計画家の交流に着目して」日本都市計画学会都市計画論文集,No.41-3,2006年10月

 秋本福雄「「1924年アムステルダム国際都市計画会議」再考-東京緑地計画の環状緑地帯(1938年)のプロトタイプは決議3か?」日本建築学会計画系論文集,第85巻第773号,2020年7月